あとがきにかえて
 五歳で弾圧の、渦中に投げこまれた私は、屈折した幼児の大半を土井靖都(やすくに)家で過ごした。靖都は明治十六(一八八三)年生まれだから、出口澄と同年。東京帝国大学法学部を卒業し、東京地検の検事となる。大正八(一九一九)年に入信、翌年から亀岡に移住して大本本部奉仕をするが、その熱情と一徹さで大本の名物講師であった。夫人の清江は東大病院の看護婦長をしていたが、大正十一年に病院を辞めて結婚し、王仁三郎の内事として奉仕する。昭和五年に私が生まれると、王仁三郎は母親としての自覚にうとい若い八重野に私をゆだねるのが不安であったのか、母乳を飲ませる以外の養育一切を土井夫人に任せた。土井靖都は大本事件で検挙され、かつて鬼検事として鳴らした身が逆に裁かれる側となる。昭和十四年夏、三年八ヵ月の獄中生活を終えて出所するが、彼の信仰は揺るぎなく、子供の私をつかまえては王仁三郎の教えを吹きこんだ。「切紙神示」を教えられたのは中学生の頃で、興奮しながら大学ノートに書き写したのに、いつの間にか紛失してしまった。月日と共に「切紙神示」に対する私の記憶も遠のいた。東京、名古屋と私の生活基盤が転々とするうち、土井靖都は昭和三十九年、八十一歳で逝く。その後、土井靖都編纂の『大本の出現とそのあかし』という自費出版の小冊子(昭和七年三月発行)に「切紙神示」が掲載されていることを知った。その中から「切紙神示」が大本に伝わった経緯について、引用する。この十字とHELLの出で来る由来について一言して置く。全て時事新報にこの由来に就いて記載されしことがあるということであるが、以前、英国の一新聞社が一剪の下に十字架を切り出す方法を十万弗で懸賞募集したとき、英国の一婦人が是に当選したのが即ち是であるとの事であるが、早くよりこの十字とHELLとの出現は、暫く欧米人間に知れ渡っていたことである。大本に於いては是が創見を異にしている。即ちもと台湾の桃園に居られた医家原登喜治氏(「大本信者」)が会社の会議の席上で、ゆくりなくも之を切り出して十字とHELLとを得られたるに始まるものである。爾来大本信者間において之は実に大本に関する事の説明を綴り出す天啓であることを次第に発見するに至ったものである。私は「十字とHELLとの出現は、暫く欧米人間に知れ渡ってゐた」というのは信じられず、誇張だろうと思っていた。ところがそれが事実だと知った。平成十年一月下旬、私が島根に地方講演に行った際、「切神紙示」について語った。すると、聴講者から思いもかけない情報を得た。正月のある日、森繁久弥氏がNHKの『二人のビッグ・ショウ』で和田アキ子さんと共演した際、一枚の紙をハサミで切って十字とHELLを出して見せたというのである。大本の一部の人しか知らないと思っていたので、森繁氏が知っていたとは意外であった。一月二十七日、そのルーツを確かめるために森繁家に電話した。森繁氏は不在で、電話に出られたのは長男だという。彼は丁寧に教えてくれた。放送されたのは一月三日の正月番組。森繁氏が誰からその方法を聞いたのかとの私の質間に、ある会合で外人から聞かされたという。その日自宅に帰ってすぐ、森繁氏は家族を集めて実演して見せ、自分も覚えさせられた。宴会の時など、座興によくやって見せると。あれから一年が立ち、平成十一年一月二十五日、この最後のつめを書いている折、ふと毎日新聞の卦報欄を見て驚いた。一面識もない電話の私にやさしく答えてくださった森繁氏の長男泉氏(「賀茂カントリークラブ社長」)が一月二十三日に御逝去(五八歳)と。計報によって初めて名前と年を知った。お人柄をしのぶと共に、御冥福をお祈りしたい。平成十年春、東京で講演した時、聴講した帝京大学の宮崎義至先生がまた新しい情報を提供してくれた。「三年前に台湾に行った時、ある高官が一枚の紙から十字とHELLを切って見せ、HELLはまたLOVEにも変化すると教えてくれた。キリストの宣教師がよく伝導に利用しているそうです。だが十字が漢字の神になるとは驚きました」欧米人どころか、今では台湾にまで普及しているのだ。さらに宮崎先生は、宮沢賢治も詩に歌っているという。
砂に刻まれたその船底の痕と巨きな横の台木のくぼみそれはひとつの曲った十字架だ幾本かの小さな木切でHELLと書きそれをLOVEとなほし一つの十字架をたてることはよくたれでもがやる技術なのでとし子がそれをならべたとき、わたくしはつめたくわらった-(オホーツク挽歌より)亡き妹とし子が切紙で遊んでいたのであろう。その十字架とへルとラブの変化は「よく誰でもがやる技術なので」 と、賢治は歌っている。この詩が作られたのは大正十二年八月四日、とし子の死は大正十年十一月だから、それ以前のできごとになる。『大やまと新聞』の記事が出た大正十年頃、かなり広がっていたと思われる。平成十年一月十九日は王仁三郎の五十年目の命日であった。ふとしたことで私はこの夜、私は土井靖都の遺品の中から多くの資料を発見した。英国ルートと台湾で信者の原登喜治の発見のルートとはまったく別のルートが示されていることを、私は知った。切神紙示は日本の皇室にも秘伝されていたのである。幕末激動の中、北朝最後(?)の天皇である孝明天皇が勤王力士隊の若き隊長に託した遺勅。それこそは、皇紀二千六百(一九四〇)年に七十歳となる◎の拇印を持つ男、出口王仁三郎に当てたものであった。そしてそこで示された秘話は、まさに維新史をくつがえす衝撃である。今はまだ、私はそれらのすべてを書き残す心の整理ができないでいる。ようやく脱稿にたどりついてみれば、なんと今日は旧暦の十二月八日であった。本書刊行にあたって、菊池俊彦氏、ロングセラーズ編集部の渡部周氏に非常な御尽力をいただいたことを厚く感謝する。