一 神の正体

教団「大本」は新興宗教の元祖といわれるが、大本から派生した新興宗教・新新興宗教は数多く、大正・昭和の歴史の裏面でもはかり知れぬほど大きな影響を与えてきた。だが王仁三郎は宗教家と呼ばれるのを嫌い、みずから世界改造業者と自負した。世界改造のためには、まず人間を改造せねばならぬから、同時に人間改造業者でもある。王仁三郎については、屹立したカリスマ性、確言といえる予言、超能力、けたはずれの作歌の数、耀盌に代表される芸術性などが次第に評価されてきた。だが思想家としての王仁三郎はほとんど知られていない。王仁三郎の思想は、大宇宙の根源力たる神が存在し、霊界が実在するという前提に立脚して展開する。同時に霊界と合わせ鏡である現界もなおざりにはしない。霊界と現界の両方に足をふんばりつつ、独自の世直し思想を展開して行く。神とか霊界とかいえば、それだけで身構える人が多い。それは多くの宗教団体の犯したさまざまな不祥事件の影響にもよろう。そして多くの人たちが無神論者であることに一種のエリート的誇りを持つ。だが王仁三郎は、「自分で無神論者だと思いこんでいるだけで、心の底からの無神論者は少ないという」という。彼らを無神論者に追いこんだ責任の大半は、宗教側が負うべきであろう。世界の歴史を振り返れば、宗教という名のもとに、どれだけ多くの血を流してきたことだろう。今もその争いは世界のどこかで続けられており、古くは十字軍をはじめ、今日でもアイルランド紛争やイスラム世界の紛争など、数え上げればきりがない。また宗教の名によって迷信がはびこり、金がかき集められ、豪華な殿堂伽藍が作られ、政治に利用されて教団が集票組織になるなど、宗教団体の与えた弊害は余りにも大きい。まともな神経なら反宗教になるのは当然であり、宗教憎さのゆえに宗教団体が鰹節(だし)にする神を否定したくなる。だが宗教団体がいかに堕落しようと、神の実在とはかかわりない記紀やギリシャ神話の神々のように、神を人格的存在とし、狐や狸などの低級霊まで神にまつりあげる。天皇を現人神としたり、戦死者を神として靖国神社に祀ったり、これでは宗教アレルギーになってしまうのも無理はない。世界の人口の大きな比率を占める仏教も、神を認めない。その代わり、宇宙の大理法(大きな法則)を仏とする。だから神仏の概念も種々雑多である。王仁三郎の思想を知るには、まず神の定義が必要であろう。王仁三郎は断案する。宇宙の本源は活動力にして、即ち神なり。万有は活動力の発現にして、即ち神の断片なり。(『霊界物語』六七巻六章「浮島の怪猫」)王仁三郎のいう神とは、宇宙の活動力である。科学もまた宇宙の活動力を研究する。ただ王仁三郎のいう活動力と科学の研究対象である活動力との根本的なちがいは、それに「意志」を認めるか否かだ。科学では意志をみとめない。活動力に意志がないというのではない。「この風はどんな気持ちで西から東へ吹くのか」とか、「この花はどんな気持ちで咲いたのか」と考えていたのでは、科学は成立しない。そこで前提として、意志を無視するところから始まる。王仁三郎のいうように、神が宇宙の活動力だとすれば、仏教でいう宇宙の大理法と同じで、ここにおいて無神論者はいなくなる。「神が宇宙の活動力ならば、活動力さまと言って拝めばいい。それをなぜ゛神゛ともったいぶった名をつける必要があるのか。そこに宗教の欺瞞がある」という反論もあろう。だが言葉の表現には限界がある。例えば「人」という言葉にしても、実は何も説明していない。もし正確に言うならば、二本足で歩く哺乳動物」とでも言うほかはあるまい。「母」なる言葉も暖味で、義理の母もあれば、育ての母もある。「私を生んでくれた女性」というしかない。「父」 はもっと曖昧で、本当の父かどうかは母しか知らぬ。だから正確に表現しようとすると、「私を生んだ女性に私を生ましめた男性」というよそよそしさになる。「活動力」では、神の持つ神変不可思議な力や絶対善、絶対愛なる存在とはほど遠く、血の通わぬ死体を見るようなイメージになろう。結局は「神」というしかあるまい。