霊界の最高機密 三 

仏教゛最奥の秘密゛

宇宙が言霊で創造されたといえば、荒唐無稽(こうとうむけい)に思う人もあろうが、実は王仁三郎は、日本神話でも、仏教でも、それを説いているという。先に引用した古事記冒頭の「高天原に成る」という表現でも、キリスト教でも、「成る」とは本当は「鳴る」であり、天地が初めて開けたとき、「タァーカァーアーマァーハァーラァー」と言霊が鳴り響き、高天原がまず霊界に作られたという。つぎにキリスト教ではどうか。新約聖書のヨハネ伝第一章を引用する。初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち一つとしてこれによらないものはなかった。真言密教では、阿の字を万有の根源とし、阿字のいろいろな意義や功徳を説く。阿吽(アウン)の二字は一切の太初と究極を象徴するものとし、阿は万有が発生する理念の本体、吽はそれが帰着する智徳を意味する。すなわち大宇宙が阿件という言霊によって創られたと説いている。ただ言霊によって万有が発生したことを説いていても、仏教では、「ア・ウン」の前にいちばん根源となるス(神)の言霊があることを知らない。そのためにいくら仏教の哲理を究めても、本体である神の概念にはたどりつくのは困難だと、王仁三郎は言う。
仏教はあたかも百合根(ゆりね)のごと〈なり むけばむくほど何もなくなるまた王仁三郎は神について、「宇宙の実在は神であり、この世のあらゆる現象は神の意志によるものである。そして神の意志とは言葉であり、言霊に他ならない」という。神の名前に~命(みこと)や~尊(みこと)という尊称をつけるが、「みこと」は「神言」の意味で、神の一言葉を表す。人聞が生きていくうえにおいても、喜怒哀楽はまず声に現れ、人聞の一挙一動はすべて言霊の力によって左右されている。例えば、私たちは無意識で行動しているように思っているが、立ったり、座ったり、歩いたりする寸前に、無意識に立つ、座る、歩くという言霊の指令で動いている。また肉体的な暴力を受けたときの痛みはいつか消えるが、言葉によって傷つけられた痛みはなかなか消えない。消えたと思っても、ときどき顔を出して胸を痛める。王仁三郎は言霊の重要性を説くが、その前提として、それを発する「心」のありようを問題にする。一例を示そう。大正七年八月二十四日午前二時頃、松江から初めて綾部の大本に参拝に来た医師井上留五郎が睡眠中をたたき起こされた。出口澄(王仁三郎の妻・大本二代教主)が急に腹痛を起こして苦しみ始めたという。井上が澄の部屋に駆けつけた時には、すでに多くの見舞い人たちが部屋にあふれでいた。直が澄の腹部を撫でながら一心に霊を送っており、王仁三郎が心配そうにのぞき込んでいた。井上は澄の急病を重い胃痙攣らしいと診断したが、手を出す余地はなかった。やがて玲瓏(れいろう)たる神言(潔斎(けっさい)の祝詞(のりと)が直の口をついて奏上された。居合わせた人たちは思わず合わせて奏上しかけたが、王仁三郎はそれを制する。あとは澄みきった直の声だけが響く。その清冽さに心底まで洗われる思いで、井上は直の祝詞に聞き惚れる。神言が二回奏上されると、顔色を取り戻した澄が井上に気づいて笑みかけた。井上が澄の診察を終え、病状が快方に向かったと確認したのは、すでに夜明けに近かった。井上は王仁三郎の部屋に招かれた。「あんたはあの、世にも美しい教祖(直)さんの神言を聞けて結構やったのう。あの声が純粋無垢の天人のみ声や。ただちに祈りは天界へ達し、天地に広がる。わしがあの時、皆の奏上を制してその厚意をことわったのも、あの珍の言霊の邪魔をさせたくなかったからや」王仁三郎はややあって、静かな声で教えた。「祝調はのう、井上はん、神明の心をやわらげ、天地人の調和をきたす結構な言霊じゃ。だから何でも唱えたら良いというものゃない。その言霊が円満晴朗であって初めて一切の汚濁と邪悪を払拭できるが、悪魔の口から唱える時はかえって世の中がますます混乱悪化する。悪魔の使う言霊には世界を清める力がないばかりか、欲心、嫉妬、憎悪、羨望、憤怒で濁っておるから、かえって天地神明のみ心を損なうことになる。日本は言霊の幸う国というが、身も魂も本当に清浄になった人が言霊を使ってこそ、初めて世の中を清めることができるのや」言霊学上、祝詞は善言美詞であっても、濁った心であげればかえって悪霊を喜ばせることになる。「パカ」という悪い言葉であっても、本当に相手のことを思って発したバカは素晴らしい言霊として、相手に響く。