霊界の最高機密 11 大本の型はどこにどう現れるか

 第二次大本事件は昭和十年十二月八日未明に勃発し、王仁三郎は獄中に投じられる。弾圧の嵐が吹き荒れる昭和十三年二月十八日、海をへだてた中国の道院(大本と提携している中国の新宗教)で、獄中の王仁三郎に対し、フーチによる壇訓(神示)が下りた。
数運は天運と相合す。尋仁(じんじん)(王仁三郎に道院から下りた名前)は化世の大責を負う者、必ず数運と天運の輪転に循(した)がい、以て世間諸劫の障(さわり)を受く也。(瀋陽道院)
訳「出口王仁三郎は世界を進化発展させる大責任を神より負わされている。ゆえに王仁三郎の肉体をもって示す数運は、天から与えられた運命として地上に実現し、世界を動かしていく。そのために、贖い主として世間のもつ劫の障害を受ける」逆賊、非国民と世間から悪罵嘲笑されている一囚人に、壇訓はその宿命をずばりと告示する。だが荒唐無稽と笑い飛ばすことができないのは、王仁三郎の動向が有無を言わせず証明するからである。二、三の例を上げよう。第二次大本事件は昭和十年十二月八日未明に始まり、昭和二十年九月八日の大審院の判決で終わる。第二次世界大戦の一環である太平洋戦争は、昭和十六年十二月八日未明に始まり、昭和二十六年九月八日のサンフランシスコ講和条約締結で終わる。大本事件勃発には本願寺が深くかかわったと言われるが、十二月八日未明という日は、昔、釈迦が菩提樹の下で大覚成道した、いわば仏教誕生の日である。第二次大本事件と太平洋戦争の始めから終わりまで共に九年九ヵ月。六年のずれをもって、鏡のように合致する。王仁三郎が獄中にあったのは、昭和十年十二月八日から保釈出所した昭和十七年八月七日まで。日本が外国の占領下にあったのは、連合軍先発隊が厚木飛行場に到着した昭和二十年八月二十八日から日米講和条約発効前日の昭和二十六年四月二十七日まで、ともに閏年が二回入って六年八ヵ月、日数にして二四三五日、一日として狂わぬ。
大本事件の勃発した十二月八日という日も、王仁三郎の数運にとっては、因縁のからまる日である。昭和二十年十二月八日、大本事件勃発から十年目のこの日、あらゆる施設を壊され廃墟と化した綾部の神苑で、大本事件解決奉告祭が行なわれた。どう伝え聞いたか、敗戦にうちひしがれた荒廃の中を、千五百名の信者が全国各地から食糧を抱え、最悪の交通事情にもかかわらず汽車を乗り継ぎ、幾日もかけて綾部にたどり着いた。在りし日の面影もない弾圧の廃嘘に立ち、王仁三郎夫婦の先達によって、この十年禁じられていた天津祝詞を天も届けよと奏上する。万感胸に追った参拝者は泣きむせぶ。逆賊の子として天日も仰げぬ思いで幼少時を送った私も、十五歳となってその中にいた。祭典が終わって、出口伊佐男が王仁三郎に代わって挨拶に立ち、その意向を伝える。「近く亀岡を根拠として、大本という今までの古い殻を全部投げ捨て、『愛善苑』という世界平和を目標とする人類善運動を起こされることになったのであります」再発足ではなく、愛善苑新発足宣言である。愛善苑は王仁三郎を初代苑主と仰ぎ活発に活動を始め、敗戦直後の荒廃した人心に明るい光を投げかける。