霊界の最高機密 13 「六つの未来予知法」と筆先の濫觴
 未来のことを言い当てるのが予言なら、天気予報や易断、株や相場の予測の発表なども一種の予言であろう。競馬や競輪の予測で生計を立てている人もあろう。だがこれらは過去の体験にもとづき、智恵を働かせて推断するのだから、このような人間の理性から出るものははずし、王仁三郎のようなカリスマ的人物の発する予言に限定する。では預言者たちはどうして未来を予知するのだろうか。およそ次の六つのタイプが考えられる。① 本人の意識にないことを言葉で発する場合。(天言通)② 目に見えないなにものかが囁いて教える場合。(天耳通)③  未来のことが瞼(まぶた)に写ってきて予知する場合。(天眼通・霊眼)④  ひらめきによる予感の場合。(第六感)⑤  夢によって予知する場合。(霊夢・神夢)⑥ 本人の意識がないのに文字で記す場合(筆先・自動書記)だがこれらの予言者に示される予知能力の発信もとは、すべて正神からのものと断言できるだろうか。あらゆる霊能を駆使したと思われる出口王仁三郎の場合を見てみよう。この一人物の場合、「人間としての時間」と「神に占有されていた時間」が交互に、あるいは同時に共存していたことは確かである。王仁三郎が何かに激しい怒りを示した時など、豊かな髪が根本から逆立ち、首の当たりがふくれ上がる。「霊がのどにつまって、言葉が出ていこうとする。それを出したら大変なことになる」と、人関心で歯を食いしばり必死に争っているのだ。憑霊が人間界の不都合に対し強烈に忠告しようとするのだが、それをそのまま世間に発したら影響が強過ぎるとの、人間としての判断による抑制なのであろう。出口直の場合もそうであった。神懸りした当初は、憑霊が腹の底から強い勢いで噴き上がり、くいしばった歯をこじあける。抑えても抑えても大声になる。それもふだんの声と異なり、威厳に満ちた男声である。となり近所は狂人だと騒ぎ出す。前にも述べたが、明治二十六(一八九三)年四月二十二日、ついに狂人とされて、座敷牢に入れられる。飢えと寒さと辱めに絶望して、さすがの直も自殺を決意する。直は九年後、当時を回顧して筆先に示す。…一日暮れるが一年ほどに覚えました。余りかなわんから、こんなことかなわん、(神の)言うこと聞きよるほどえらい目にあわされるから、これは首しめて死んでしまおうと思うて、単衣物の襟(えり)をとりて首にかけたら、『直よ、死にたらこの中に居るのと同じことであるぞよ』と申される。『見たいものも見られはせんし、もの言うとうても言うことはできんぞよ。なんぼ死のうと思うたとて、神がきっとついて居るから、死なれはせん。こうしておりてくれねばならんのざ』と言い聞かしてもろうて、『きょうか、そんなことならやめにいたそう』と申したのざぞよ。(明治三十五年旧十月五日)まだ四月の寒い季節の夜、直は単衣の着物一枚であった。自殺を決意したが、首を吊る縄もなかったのであろう。単衣の着物の襟をほどいて紐にしなければならなかった。だがそこで神がストップをかける。今死んでも、牢にいる時と同じ苦しみをせねばならぬと。本書「相応の理と一霊四魂」の項で述べたように、自殺を思った時の直は、神を疑い、地獄的想念にあった。死んだらその環境から脱せられるのではなく、肉体を離れた霊魂はやはり牢の中と同じような苦しみの霊界に行くだけなのだ。自殺は断念したが、もし牢から出られでも、神が直にまた叫ばせるならば、また同じ羽目に会おう。「どうぞ叫ばすことだけはやめて下さい」と直が頼むと、神は言った。「それならば筆をとれ」「恥ずかしながら、私はいろはのいの字も知りません」「神が教えるから書け」書こうにも、筆はない。すると神が『そこらあたりを見よ」と言う。見回すと、膝の前に一本の釘があった。それを子にするや、直は神の指示のまま、釘で柱に文字らしいものを書き始めた。これが筆先の濫觴である。