霊界の最高機密四

「相応の理」と「一霊四魂」

まずこの宇宙に霊界ができたことを述べたが、王仁三郎は現界と霊界は「相応の理」によってつながるという。霊界は宇宙の実体界で、現界は霊界の移写、つまり映像の世界と言えよう。霊界の真象を写したのが現界で、だから現界を称して「現世(うつし世)」という。例えば、三七七六メートルの富士山を数センチ四方の写真に写したとしよう。この場合、現実の富士山は霊界で、その写真が現界。写真の富士山は小さいものでも、現実の富士山は駿・甲・武にまたがる高山だ。だから霊界は、人聞が夢想もできぬ広大なものである。宇宙の霊界が創造され、「相応の理」によって現界ができると、ついに命が生まれる。ここでいう命とは、人間だけに限らない。王仁三郎は、この地球上に存在する動物、植物、鉱物すべてに命があるという。命があるということは、すべてに霊があるということ。霊は生き通しの存在であり、その霊が容器(人間なら肉体)の中に入った状態が現界での姿になる。ただすべてに霊があるといっても、その霊のあり方がちがう。鉱物は霊が潜んでいる状態、植物は霊が眠っている状態、人間をふくめて動物は霊が覚めている状態だ。霊石だといわれるものは、潜んでいるはずの霊が覚めたからで、神社などで御神木と言われるものも、眠っている霊が覚めた状態といえよう。人や動物の霊を特に精霊といい、植物や鉱物の霊と区別する。だが人と動物の精霊にも、大きなちがいがある。人の霊魂は『一霊四魂と五情の戒律』という神と同じ属性が与えられており、だから「人は神の子」なのだ。だが動物にはそれがない。一霊四魂とは、直霊という一霊と荒魂・和(にぎ)魂・幸魂・奇(くし)魂の四魂を指す。直霊は霊魂の内奥にある至善至美の純霊であり、善悪を直感し、人を善導する。直霊と四魂の関係はどうか。霊魂は物質ではないから、三次元的思考にとらわれないほうがいい。直霊が四魂を統括していると考えてもいいし、それぞれの魂に直霊があると考えてもいい。あるいは霊魂の四方面の働きが四魂であると考えることもできる。一霊四魂にはそれぞれ本体と用がある。用とは働きのことである。荒魂の本体は勇。用は進・果・奮・勉・克。積極的に物事を進め、こうと決すれば果断果敢に実行し、常に勉強し、悪にも欲にも打ち克つ。すなわち実行力、忍耐力、克己心である。和魂の本体は親。用は平・修・斉・治・交。平和をつくり、身を修め、家を斉え、国を治め、神や人、ありとあらゆるものと仲良く交わる。夫婦の愛や恋人との愛、兄弟愛もこの魂の働きである。すなわち親和力。幸魂の本体は愛。用は益・造・生・化・育。この世に存在するすべてのものに益を与え、物を造り、生み、進化させ、育てる。すなわち生成化育の働きである。ただここでいう愛とは、和魂の用である夫婦の愛とか恋人との愛、隣人愛と本質的にちがう。幸魂の愛は、母親がわが子を苦労して生み育てる愛、あるいはお百姓さんが土地を耕し種を蒔き、作物を収穫する愛、芸術家が心を込めて作品を造り上げる愛を指す。奇魂の本体は智。用は巧・感・察・覚・悟。物事を成すときに巧みであり、感覚力が鋭く、観察力が深く、知的な覚りも精神的な悟りも明らかになる。すなわち智慧証覚である。かつて王仁三郎は西郷隆盛を大人物と評価していたが、大島から鹿児島へ旅をしたときに、彼の霊と語った。〔「ー霊四魂と五情の戒律」とは何か】大島から鹿児島へと、今度の旅行で西郷南洲翁の跡をたずねてみたが、翁には惜しいかなる奇魂が足らなかったということを痛感せずにはおれなかった。天下に号令しようとするものが陸路兵をおこして追々熊本を通過して東上せんとするなどは策のもっとも拙なるものである。かの時、急遽兵を神戸、大阪に送って、名古屋以西を扼してしまわねばならぬのであった。当時、物情騒然としていて、そんなことはなんでもなくできたことなのである。かくて京都、大阪などの大都市を早く手に収めねば志を伸ぶることができないことは、火を見るよりも明らかなことであった。しかるに事ここに出ずして熊本あたりにひっかかってぐずぐずしていたものであるから、思いもよらぬ朝敵の汚名を一時といえども着ねばならぬようになってしまったのである。奇魂が足らなかった。桐野利秋、篠原国幹みな然りである。大島に滞在中、三回ばかり西郷翁の霊に会ったが、いろいろ私に話をしておった。「智慧が足りなかったなあ」というてやったら、「まったくやり方が悪かった」というておった。(『水鏡』「奇魂の足らなかった南洲翁」)