大本は出口王仁三郎が創始した
大本では、出口直が帰神になった明治二十五(一八九二)年を大本の開教とする。それが定説となり、一般の辞書類でも、それに従っている。平成四(一九九二)年には、大本教団では開教百年として意義づけ、さまざまな記念行事を行なっている。だが愛善苑では、大本の開教を王仁三郎が高熊山で修行した明治三十一年とする。その根拠を述べよう。霊界物語第一巻「発端」は次の文で始まる。自分が明治三十一年旧二月九日神使に伴なはれ丹波穴太の霊山高熊山に、一週間の霊的修行を了へてより天眼通、天耳通、自他神通、天言通、指命通の大要を心得し、神明の教義をして今日あるに至らしめたるについては、千変万化の波瀾があり、縦横無限の曲折がある。旧役員の反抗、信者の離反、その筋の誤解、宗教家の迫害、親族、知友の総攻撃、新聞雑誌、単行本の熱罵嘲笑、実に筆紙口舌のよくするところのものではなぃ。自分はただただ開教廿四年間の経緯を、きわめて簡単に記憶より呼び起こして、その一端を示すことにする。.この文は大正十(一九二一)年に書かれた。けれどもさりげなく書かれた「開教廿四年間の経緯」云々の重大な指摘は、長い間見逃されるか、無視されてきた。大本開教は出口直による明治二十五年との常識が先入観としてあるためだ。地方での愛善苑会員による『霊界物語』輪読会の時、参加者の一人が大正十年から二十四年を引いてみた。なんと、意外なことに開教は明治三十年になる。だがそれは西暦による数え方で、明治四十五年と大正元年は同じ年だから、当時の数え方では一年が二年になる。すなわち明治三十一(一八九八)年が開教と、『霊界物語』冒頭からはっきり示していたのだそのつもりで王仁三郎の残した文章をみると、『霊界物一語』十二巻総説歌。いろんなところで示している。
総説歌
 葦原の瑞穂の国の中津国  その真秀良場や青垣の 山を四方にめぐらして  流れも清き小雲川 淵瀬と変る世の中は  めぐりめぐりて二十四年 地の高天原も治まりて  鬼の姿もみずのえの 大蛇探女も戌の春  干支もめぐりて如月の 今日の八日は三めぐりの  月日の車後にして 梅が香薫る月の空  高く輝く瑞月は 八重黒雲につつまれて  浮世のなやみ覚りたる 神のめぐみの幸はひて  心の岩戸開きつつ 明れば二月九つの  日は西山に傾きて 月照る夜半の独寝の  夢を破りし芙蓉山 神の使の現みたま  五六七の御代を松岡の 使の神に誘はれ  千歳の松の繁り合ふ 堅磐常盤の巌窟に  さしこもらひて天地の 神の教を受継し  名も高熊の岩の前 天津御空に月照の  神はわが身を照しつつ 鎮魂や帰神  審神の道も授けられ 現界、神界、幽界を  産土神に伴はれ 須弥仙山に攀ぢ登り  宇宙の外に身を置きて 過去と未来と現在の  世の状況を悟りたる 十二の干支も三廻りの  いよいよ今日は村肝の 心洗ひて霊界の  奇しき尊き語り言 十二の干支に因みたる  十二の巻の筆始め…
この総説歌の書かれたのは大正十一(一九二二)年三月六日(旧二月八日)、高熊山修行三めぐりの旧二月九日前日であり、ここでも二十四という数字が出てくる。ここでは「めぐり」とあるから満二十四年前は明治三十一年であり、高熊山岩窟で「吾こそ天地の神の教えをついだ」との自負である。『霊界物語』 第十四巻「総論歌」でも、二十四年という数字が現れる。
総論歌 思へば深き神の道  大き正しき十の年 神の力の現はれて  奇しき御教を奇九の月 中の八日の正午頃  教の中野玉拾ひ   かき集めたる高砂の  松葉の雫しとしとと したたる恵に霑ひつ  神の出口の王仁三郎 二十四年の光陰を  雲に蔽はれて桶伏の 山より高き大稜威  照すときはの松の世と いよいよ現はれ鍛へたる  十握の劒抜き放ち 曲津のたくみ斬りまくる  五六七の神の御蔭もて 言葉の玉の緒いのち毛の  筆の運びもいと速く 諸の妨げみづのゑの  戌の春橋かけまくも かしこき神代の物語  五六七の神に因みたる 五百と六十七の節  言解き了り書終る 堅磐常磐の大道を  いよいよ開く如月の 下の七日の七つ時…
大正十一年に口述された第十六巻の「総説歌」には「廿五年の時つ風/待ちに待ったる三月三日」、また同巻の「秡」は「小幡神社の産の児と/生まれ出たる瑞月が/二十五年の時津風」で始まる。「廿五年」はうっかり読むと直の帰神した明治二十五年と間違いそうだが、これが書かれたのは大正十一年で、明治三十一年を起点とした数であることは、これまでの例から見て疑うべくもない。第五十五巻の「序文」は瑞霊の神徳と『霊界物語』の功徳が述べられた聖文で、まったく句読点が省かれて、一行四十字、七十四行からなる。紙数の関係で、始めの部分のみ引用する。
序文(明)けく治まる御代の三十一年春は如月の九日天教山に鎮座したまふ木花姫命の神使斯世を(治)めむと神々の協議の結果をもたらし坐丹波の国曽我部の村に牛飼ふ牧童の辛未の年生れ(三)ツの御魂に因縁ある三葉彦命の再生なる神柱に三千世界の修理固成の神業の先駆を命じ(十)字架を負はしめたまひしより今年大正の十二年正月十八日まで満二十五年間出口王仁は(一)心不乱に神国成就のために舎身的活動を続けて
引用文の各行の頭字を右から左に読むと一つの文章が浮かび上がる。明治三十一年如月九日より高熊山の修行より満二十五星霜を経たり霊界物語口述開始より十五箇月着手日数は二百日にして五十五編を終る王仁三郎は霊界物語の中で繰り返し高熊山修行の明治三十一年を大本の開教と、主張しているのだ。ではなぜそれを伏せねばならなかったか。当時の役員信者たちは開祖絶対であり、開祖によって大本が作られ、王仁三郎は単に組織したに過ぎないと信じられていた。霊界物語の刊行でさえ、「回顧録」にしるされた通り、役員たちの執拗な妨害に遭い書き直させられる状況であった。王仁三郎が大本を聞いたという事実すら、書けなかった。だから後の世のために、このような廻りくどい方法を採らねばならなかったのだ。では出口直の立場はどうか。明治二十五年一月三十日(旧正月元日一)の霊夢が発端となる。直の五女澄も『幼ながたり』で語っているように、以後、直は同じ夢を連日見る。帰神の前兆であった。ところが直の帰神の日となると、正確には判明しない。直昇天直後に出た『神霊界』大正七年十二月号の「教祖の偉蹟」(岩田鳴球編)では「正月のある日」とし、『神の国』(『神霊界』改題)に連載の「大本教祖伝」(大正十三年新年号)では「まだ鏡餅のあった時分」として日は特定されておらず、少なくとも大正期までは旧正月の松の内という漠然とした日であった。大正末期から昭和初期にかけて編纂されたと思われる「大本年表」(未公刊)では「旧正月十日ごろ」とし、昭和六年発行の『大本開祖伝』と『大本略史』ではいずれも「旧正月十日」とはっきり断定し、さらに戦後の昭和二十四年発行の『開祖伝』もそれを踏襲している。「松の内のある日」から旧正月十日になった理由は、「大本年表」編纂の時期に、次の筆先の直筆が発見されたからであろう。
その後、出口直が乱心となる…明治二十五年の正月の十日頃から、艮の金神さまがお移りなされたのでありまして….
ところが昭和三十九(一九六四)年発行の『大本七十年史』上巻では直帰神の日を「旧正月五日」と改め、以後、大本本部の刊行物はそれを踏襲している。その理由は本宮山頂に建てられた「神声碑」であろう。