大本事件は天皇の死と関連している

大本事件はなぜかいずれも天皇の死と関連する。『第一次大本事件』大正十年六月十七日、王仁三郎は百二十六日の獄中生活を終え、責付出獄する。十月五日、第一審の王仁三郎に対する判決は有罪。不敬罪と新聞紙法違反の最高刑である懲役五年が言い渡され、ただちに控訴する。大正十四年七月二十日の大審院の判決は、前判決を破棄して、事実審理と決定する。大正十五年十二月二十五日に大正天皇崩御により、昭和二年二月七日に大赦令が発せられ、五月十七日、「原判決を破棄し、免訴とする」の判決が出る。大正天皇の死後半年たらずで事件は黒白をつけられぬまま終結するが、それが第二次大本事件へと尾を引く。『第ニ次大本事件』昭和十五年二月二十九日、第一審の王仁三郎に対する判決は治安維持法違反、不敬罪ともに有罪で無期懲役。即日控訴する。昭和十七年七月三十一日の王仁三郎に対する判決は、弾圧の主要目的である治安維持法違反が無罪、不敬罪のみ有罪で懲役五年。大本側も検事側もその判決を不服として、それぞれ上告の手続きをする。八月七日、王仁三郎は六年八ヵ月(二四三五日)ぶりで保釈出所。昭和二十年八月十五日、私の満十五歳の誕生目だったが、ラジオが正午に天皇の重大ニュースがあると繰り返し伝えていた。熊野館の客間では、王仁三郎夫妻、父母、叔父叔母たちが集まってニュースを待った。ラジオを通じて初めて聞く天皇の声は聞き取りにくく、難解な言葉は子供の私には理解できなかったが、それは思いもかけぬ敗戦の詔勅だった。「ハハハ、マッカーサれたわい」と王仁三郎は笑いだす。敗戦も祖父の笑いも、私にはショックだった。今から思えば、これが現人神天皇の死であった。天皇の人間宣言は翌昭和二十一年一月一日。「お前の信じる神が偉いのか、天皇が偉いのか」の拷問は幾多の信徒を苦しめ、狂わせ、死に追いやられたものすらあった。天皇が人であるなら、不敬罪は何だったのか。敗戦後の大審院の判決は九月八日、「上告はいずれも棄却す」。第二審の判決に戻るのだから、治安維持法違反は無罪、不敬罪は有罪のまま、大本事件は終結する。大日本帝国のでっち上げた虚像現人神の死からわずか二十五日目である。不敬罪の名が消えるのは、昭和四十七年五月三日の憲法発布によってである。『第三次大本事件』昭和天皇の死は昭和六十四年一月七日。その年の十二月八日で大本事件が終わったとすれば、天皇の死後一年未満である。大本教団の現人神に仕立てられた三代教主直日は平成二年九月二十三日。享年八十八。直日の夫であり、尊師と敬称された日出麿教主補も、平成三一年十二月二十五日、クリスマスの日に後を追う。享年九十四。目も耳も口さえふさがれていた大本信徒も、生神に仕立てられていた二人が生身の人間であった現実に、いやおうなく直面させられた。