愛善苑の再興と「二四三五日の型」の奇跡

 改革運動に試練が続く。「いづとみづの会」に参加した少数の本部奉仕者と信者たちは教団から追放される。その多くは大本事件を耐え抜き、教団から疎外されても信仰を貫こうとした人たちである。だが彼らは高齢の人が多く、つぎつぎに亡くなっていく。また改革運動だから、新しい入会者は望めない。改革運動は大きな壁に突き当たっていた。私たちはイソップ童話の『太揚と北風』の話を思い出した。教団改革に熱中するあまり、北風になっていたのではないか。ピューピュー吹きつけて非を鳴らすほど、その度に教団執行部はガードを固くして行く。みずからが教えを体現する太陽になるしかあるまい。多くの議論を経て、いくつかの選択肢のうちから、私たちは王仁三郎の最後の提唱であった「愛善苑」の再興を決意した。それに、王仁三郎を慕ってくる人たちの受け血も必要である。昭和六十一年十一月七日、熊野館で「愛善苑発足奉告祭」を執行する。これまで「いづとみづの会」の拠点は私の私邸である熊野館しかなかった。王仁三郎が保釈出所してここ熊野館に帰ってきたのは昭和十七年八月七日、その日を記念して、月次祭は毎月七日に行なわれていた。愛善苑再興を決めていちばん近い月次祭の日が選ばれたのである。十二月十九日午後一時ころ、伯者の大山から客があった。大本教団に所属しているという人物だった。教団の信者たちは「いづとみづの会」が王仁三郎の教えの普及と世界平和を目指す愛善苑として発足したことを知らなかった。熊野館は「いづとみづの会」の本拠というので、教団側の信者はまるで悪魔の巣窟かのように恐れて前を通ることすらしなかった。ましてその首魁のように宣伝されている私に面会を求めるとは、よほどの決意があったのだろう。多くの人がそうであるように、最初はなぜ教団に歯向かうのかという抗議だったが、愛善苑の再興を話すうち、次第に理解を示し始めた。二時間ほどたって去ろうとする時、彼はしみじみといった。「それにしても、第三次大本事件はいつまで続くんでしょう」「そうだなあ、そう簡単には終わらんよ。第二次の時だって、聖師は六年八ヵ月、日数にしてニ四三五日も獄中に入っておられたんだから」深い考えもなく言った言葉だが、客が帰った後も、私はなぜかその数に引っかかった。翌二十日、当日の日記を調べると、私は家内とともに朝八時半に家を出て京都へ向かい、南座顔見せ興行(午前十時間演)を観劇している。第三次大本事件が起こってから、芝居見物などまったく忘れていたのだが、なぜそんな時間がとれたのか、思い出せない。家を出るに当たって、私は事務局に第三次大本事件勃発から愛善苑発足まで何日かかったかの計算を依頼していた。観劇を終わって京都市内の書店をまわり、帰宅したのは夕方の七時半頃であった。すると事務局の連中は顔色を変えて報告する。「昭和五十五年三月九日の『いづとみづ』の設立総会から昭和六十一年十一月七日の愛善苑発足奉告祭まで、ビッタリニ四三五日でした。何度も確かめましたが、間違いありません」前述のように、第二次大本事件で王仁三郎が獄中に入れられて出るまで、ニ四三五日。そのひな型が日本に移り、太平洋戦争で日本が戦争に負けて外国に占領されていた日にちが同じく二四三五日。第三次大本事件では、「いづとみづ」結成から愛善苑発足までニ四三五日。この間、私たちは管理化された大本教団という牢獄に閉じ込められ、もがいていたのだ。いづとみづの会結成、愛善苑再興、私たちは最善の道を選んできたと思っていたが、胸中一抹の不安がなかったと言えば嘘になる。神の目から見て、もしそうでなかったら、ついてきてくれた仲間を地獄へ引っ張っていくことになる。この不安がまったく一掃された。ウラナイ教化した大本教団本部に代わって、「大本は世界のかがみ」の型は愛善苑に移っていた。このことが会員の中にあっという間に知れ渡り、会員たちをどれほど勇気づけたか知れない。