王仁三郎流の「奥の手」とほ何か
『神霊界』大正十年一月号の「掃き寄せ集」の最後のほうで、王仁三郎は左の記事を載せている(元の記事は行かえ句読点なし)。剪東京のやまと新聞本日発行紙上にも、左の記事が載って居ったから序に発表しておかう。、最近或る政客が例の大本教の正体を見届けるとていわゆる教理なるものを取寄せて探究した際、『紙剪(き)り宣伝』なるものを覚えて、一枚の白紙を夫々の方式に切分けて、先づ外交関係から国家の将来を占断(うらな)って見た。所が世界に傍若無人の振舞をしてゐる米国の勢力を剃ぎかかると、十字架が中から現われてそれが終い迄害をする。そこで之に対抗するものはと見ると「神サマ」と出る。何の神かと見ると、「坤(ひつじさる)」とあって、即ち綾部の方向を指す。さて、この二大勢力が衝突するのは何時かと見ると、明かに大正十年九月二十日午後一時と出る。それでは時の内閣は誰かと見ると、こはそも如何に原では厂のノが短くて字にならぬ。後藤の字も現れないので若しやと仮に作って見ると、最初の十字架がある為めに却て明かに加藤と現れたので、その政客膝を打って『ナール程、片岡(直温}の熱心な訳ダ』紙切宣伝に就ては、この記事では未だ未だ要領を尽くして居らぬ。例の方法で切って見ると、第一に不思議なのは「大日本」。「丹波」。「大本」。「本宮」。「出口直」。「王仁」。「直日」。其他大本に関し、種々の文字が現われて来ることを付記しておく。
前から、私は王仁三郎が引用した「やまと新聞」の記事に疑問を持っていた。全国のマスコミがこぞって大本たたきをしている当時、一般の時事新聞が大本に好意的な記事をのせるだろうかと…ところが『大本七十年史』(上)を調べていて、一気に今までの疑問が氷解した。…全国の新聞が大本攻撃や中傷などに意欲的となるなかにあって、「九州日報」、「愛媛新聞」、「大やまと新聞」(野口加月(にょげつ)氏が関係している}、「茨城新聞」、「北海タイムス」などの地方新聞は、好意的な大本紹介の記事をのせたので、宣教にはかえって役立った。「大やまと新聞」の関係者だという野口如月は大本の茨城主会長にまでなった熱心な王仁三郎崇拝者である。野武士風な豪快な男で、彼なら官憲を恐れず、紙面に大本紹介の記事をのせたろう。このことを知って、私は記事を書いたのが王仁三郎であると確信した。後述するが、この時点で、地方にいる野口が「切紙神示」を知っていたとは思えない。王仁三郎は本宮山神殿破壊を予知し、検挙されるまでに信者に何とかメッセージを残したかった。だが大本の機関紙に掲載すればたちどころに発行停止、流言飛語のかどを咎められて、弾圧の機会を早めることになる。そこで王仁三郎流の手を使う。王仁三郎の書いた記事を、ニュース・ソースを伏せ、匿名で「大やまと新聞」に掲載させ、それを「王仁」署名入りの「掃き寄せ集」に転載する。苦肉の策であり、これなら王仁三郎に累が及ばない。引用の記事の後半で、大正十年九月二十日時点の内閣は「原では厂のノが短くて字にならぬ」加藤友三郎内閣ができるように読めるが、現実には原敬内閣であった。原敬は大正七年九月に政権を獲得し、大本を弾圧する。そして神殿破壊のわずか半月後の十一月四目、中岡艮一の凶刃に倒れる。犯人の名の一字に珍しい艮(うしとら)の字を持つことも因縁めくし、当時の新聞報道によると凶器は「五寸ばかりの短万」とあるから、「短くて字にならぬ」「ノ」は中岡の持った短万をさすとも思える。原の次に総理になったのは高橋是清だが、高橋内閣も短命で、大正十一年六月九日に加藤友三郎が総理になる。時期は半年ずれるが、確かに加藤内閣は実現している。王仁三郎が本宮山神殿破壊当時の内閣に言及したのは、時事新聞である「大やまと新聞」へのサービスであろう。