神声碑「うぶこえ」が暗示したものとは

 昭和六(一九三一)年元旦、王仁三郎は不吉な予言をする。「本年は西暦一九三一年で(一九三(いくさ))戦争の(一)はじめ、皇紀では二五九一年で、(二五九)地獄の(一)はじめじゃ」その年の九月八日、王仁三郎は第一次大本事件で破壊された本宮山神殿跡に三つの石碑を建立した。右側の碑は「教碑」といわれ、大本教旨が刻まれている。神者(は)万物普遍の霊にして人波(は)天地経論能(の)大司宰也神人合一志(し)て茲(ここ)に無限乃権力を発揮◎(す)
教碑は大正九(一九二〇)年六月、仙台の千代分所から献納された六七五〇キロの仙台石。大書した大本教旨を刻んだまま五六七殿の東側に伏せておかれ、大正十二年十二月九日に本宮山項に引き上げられたが、なぜか建立されず文字面を下にして伏せておかれた。左側の碑は「歌碑」 で、王仁三郎の歌二首。盛んなりし みやゐ(宮居)のあとのつる山に やまほととぎす昼よるを啼くよしやみは 蒙古のあらのに朽(くち)るとも やまと男の子の品は落さじ昭和六年七月十二日出口王仁三郎
一首目の歌の「つる山」は本宮山(桶伏山とも言う)の別称だが、四年後の第二次大本事件のすさまじい破壊を暗示するような不吉な歌であり、二首目の歌は王仁三郎が蒙古のパインタラで死に直面した時の辞世の歌だ。これもおめでたい歌とはいえず、なぜわざわざという気がする。中央の「神声碑」は、碑面の上段に「うぶこえ」と横書きされ、直の初発の筆先が刻まれている。三ぜんせかい いちどにひら九 うめのはなもとのかみよにたてかえたてなおすぞよすみせんざんにこしをかけうしとらのこんじんまもるぞよめいじ二十五ねんしょうがついつかで九ちなお碑に刻まれた文字は筆先の中から集字され、間配りを考えて作られたもの。年月と署名は王仁三郎の筆跡である。明治二十五年旧正月五日は新暦の二月三日、節分の日に当たる。旧正月十日よりも五日にしたほうが、艮の金神の出現にふさわしいではないか。筆先で「明治二十五年の正月の十日頃から、艮の金神さまがお移りなされたのでありまして:::」と書かれていたのを・無視し、大本の権威づけのために変えられたのであろう。旧正月五日説と旧正月十日説をどう理解したら良いのか。直は一月三十日(旧正月元旦)に初めて霊夢を見、同じ夢を幾晩も見たと言われる。旧正月五日は直の霊夢が佳境に入った時で、旧正月十日に誰の目にも分かる激しい帰神状態になったのではないか。王仁三郎はなぜ「うぶごえ」と題し、神声碑を建てたのか。王仁三郎の歌集『東の光』に不思議な歌が収録されている。
三十六年前に宣らせし大神の 産声石にほりてたてたり
この歌は初めは『神の国』昭和六年十二月の「言華」( 毎号、王仁三郎の歌が掲載された)に発表されたもので、後に『東の光』に収録された。もちろん、神声碑の建立をさすことは言うまでもない。昭和六(一九三一)年の三十六年前と言えば、明治二十八(一八九五)年になる。「産声」 と言えば開教をさす。だが明治二十五年ならともかく、この年は大本の開教とはまったく関係がない。直は金光教の布教師奥村定次郎の態度に愛想を尽かし、広前を離れて糸引きに出たり、福知山教会で子守をしたりの時代であった。では王仁三郎は「三六」の吉数の口あたりの良さに、でたらめを詠んだのか。そう思うのは、西暦年号の数え方に慣れた私たちの錯覚である。先にも述べたが、一九一二年は明治四十五年と大正元年、一九二六年は大正十五年と昭和元年とそれぞれ二年に数える。そこで西暦にこだわらず、昔風に昭和六年から三十六年前にさかのぼってみよう。昭和が六年、大正が十五年、そして明治四十五年から十五年前はなんと明治三十一年。王仁三郎が高熊山入山の年である。この年、王仁三郎によって真の「産声」が発せられた。すなわち大本開教の年である。神声碑と歌碑は昭和六年八月八日から仙台石に掘り始め、九月一日に完成、本宮山に引き上げられていた。そして天機熟したと見たのか、九月八日に三基の碑を建立し、王仁三郎は宣言する。
「これから十日後に大きな事件が起き、ぞれが世界的に発展する」
果たして九月十八日、日本が中国大陸を侵略する最初の契機となった満州事変が勃発し、「地獄のはじめ」の世界大戦へとのめりこんで行く。碑を建てることが合図であるかのように、王仁三郎は霊界を動かし、その波動を現界へ反映させていった。それから一ヵ月後の十月十八日{旧九月八日)、霊界物語口述十周年を記念し、亀岡の大祥殿で物語拝読会が行なわれた後、王仁三郎は参加者に語っている。九月八日は大本にとっては不思議な日であります。本宮山は一名桶伏山と云って、大本教旨を書いた大きな天然石があって、彫刻したなりで時期が来るまで伏せておいて豪古入りをした。帰って来てもまだ起こす時期が来なかったのでありますが、その石を本年の九月に入って神さまから初めて早く建ててくれと言われて建てた。うっかりしていたが、後で気がついてみると、新の九月八日に建て上げていた。ぞれから十日後には満州問題が起こるとあらかじめ言っておいたが、その通りに起こりました。また本日が旧の九月八日であって、新の十八日に当たっているのも不思議であります。{『真如の光』昭和六年十一月五日号「聖師様のお話」}大本が王仁三郎によって開教されたとすると、直の果たした役割は何か。霊界物語一巻「発端」に明示されている。---変性男子(出口直)は神政出現の予言、警告を発し、千辛万苦、神示を伝達し、水をもって身魂の洗礼を施し、救世主(王仁三郎)の再生、再臨を待ってをられた。ヨハネの初めてキリストに対面するまでには、ほとんど七年の間(直の帰神の明治二十五年から王仁三郎との明治三十一年の初会までの七年)、野に叫ぴつつあったのである。出口直の役割はキリストに対するヨハネで、救世主の出現を予言しその舞台を作ることであった。みろ〈出口直すなわち厳の身魂と誤解している人が多いが、王仁三郎は弥勒の吉数にちなむ三十六巻「序文」で注意を与えている。…艮の金神国常立尊は大海の潮水のごときものである。そして出口教祖は手桶のようなものである。その手桶に汲み上げられた一杯の潮水こそ、教祖の手になれる艮の金神のいはゆる筆先そのものである。しかしながら大海の水も、その色において辛味において、少しも変化は無きはずである。さすれば如何なる卑近な言を以て表された筆先といえども、神様の意志表示については毫末も差支へないものである。筆先にも「出口直の落ちぶれものに書かした筆先であるから、人民が疑ふて誠に致さぬは無理なきことであるぞよ云々」と示されてある。落ちぶれたといふ言葉は、物質的のみを指して仰せられたのではない。教育の程度にも応用すべきものである。水は方円の器に従ってその形を変ずるごとく、神すなわち大海の潮水も同様に、その器に由って変化し、その容器の大小と形状に従って、カと形に変化を来すのは自然の道理である。ゆえに出口教祖の筆先が如何に拙劣なものでも、艮の金神国常立草の権威を傷つく道理は決してない。ただ、今まで出口教祖の身魂を、全艮の金神、全国常立尊そのままの顕現と信じていた人の小言に過ぎないのである。ぞれゆえ、筆先にも女子の身魂が克く調べてくれと断わってある所以である。要するに筆先そのものは、神の芸術の腹から産れたところの宗教(演劇)の脚本を作るべき台詞書(せいふがき)であることは、既に霊界物語第十二巻の序文に述べた通りである。女子そのものも、決して瑞の御魂の全体ではない。やはり大海の潮水を手桶に汲み上げたその一部分である。r筆先擁護に見せながら、直は潮水を汲み上げる手桶と言い切って、役員信者たちの迷妄を覚まそうとする。変性女子の身魂はさにあらず、手桶に汲み上げたその一部分、「その」は手桶にあらず、大海の潮水そのもの、全体に合すべき同質の瑞の御魂であると主張しているのだ。だがその真意は、第三次大本事件が勃発するまで、汲み取れなかったのである。霊界物語第六巻第六編「百舌烏のさえずり」では三五教(大本に相応)の成立の経緯が述べられている。それによると、三五教は三大教と五大教との統一宗教。三大教は霊鷲山(高熊山に相応)の麓の玉の井の郷に現われた三葉彦神(王仁三郎に相応)の立教によるもの。五大教は黄金山(本宮山に相応)の麓に現われた埴安彦神(出口直に相応)の創始。同巻のこれまた弥勒の吉数の第三十六章「三五教」では、その成立について述べられる。
ここに束(あずま)彦は、一たん黄金山の埴安彦の御許に帰り、三大教の宣伝使たる北光彦の言心行一致の神業を賛嘆しながら奏上し、かつ三大教の教義を詳細に語りたり。埴安彦神は之を聞きて大いに感じ、ただちに使を霊鷲山に使はし、三葉彦神を迎へ帰らしめたり。三葉彦神は三大教の教主なり。このとき北光天使より、五大教の教義を詳細に聞きて大いに喜びつつありし際のこととて、ただちに承諾の意を表し、北光天使とともに黄金山に参ゐ上り、埴安彦神に面会して、種々教理を問答し、たがひに諒解を得てここに両教を統一し、三五教と改称するニととなりぬ。而して埴安彦は女神にして、三葉彦は男神なり。ここに両教統一の結果、三葉彦神は名を改めて、埴安姫神となりて女房役を勤め、救いの道を天下に宣伝することとなりぬ。
三五教の成立が三大教と五大教の合体にあるように、大本もまた、王仁三郎と直の合体によって始まる。だが注意すべきことは、両教の「合体」(二つ以上のものが一つになること。合同すること)は単なる「提携」(手を取りあって互いに助けること。協同して事をなすこと)でなく、引用文では「統一」(多くのものを一つに統べること。統べ合わせて支配すること)の語が使われていることである。そこで統一の主体は三大教か五大教か気になるところ。あからさまに真実を述べ得ぬ当時の教団状況から、王仁三郎は表現に細心の注意を払い、読者に行間を読むことを求める。三五教の命名にしても、三大教の「三」を頭にしたこと、また「三葉彦神は三大教の教主なり」と明確に述べられていることを見ても、三大教が五大教を統一したと考えるべきであろう。さらに三葉彦神は男神だが、両教統一の結果、三葉彦は埴安姫と改名して女房役を勤めたというのも、意味深長である。本来、主体は三葉彦でありながら、経論のために一時的に一歩控えたことを言外に匂わしているかに思える。