「神」と「悪魔」二大勢力の激突
この記事は大本信者の興味を引きつけたと思われる。どのような形で衝突するかは不明だが、明らかに二大勢力(神と悪魔)の衝突は「大正十年九月二十日午後一時」とある。神示の場合、旧暦で示されることが多いと述べたが、新暦ならば、この記事が発表された九ヵ月後の十月二十日になる。信者はいろいろな憶測をしながら、固唾を呑んでこの日を待った。だがその前に、大正十年二月十二日に第一次大本事件が起こり、王仁三郎と浅野和三郎は検挙され、それどころではなくなった。同年六月十七日、午後十時過ぎ、王仁三郎と浅野和三郎は予告もなく責付出獄する。九月十六日に第一審公判が京都地方裁判所で開廷され、二十七日に終了。十月五臼に判決が下った。開廷から判決まで二十日、事実審理はわずか二日という権力側の一方的裁判である。判決は王仁三郎に不敬罪・新聞紙法違反の最高刑である懲役五年、浅野には不敬罪で十カ月。被告は即日控訴、検事側も浅野の量刑を不服として、公判の戦いは大阪控訴審に持ち込まれる。前述のように、十月八日(旧九月八日)に「霊界の消息を発表せよ」との神命が下るが、王仁三郎は内外多事であった。裁判所に出頭したり、眼を痛めたり、十一日には京都府庁に呼び出され、本宮山の神殿破壊を命じられる。法律でもなんでもない、単なる明治五年の太政官通達をかざしての神殿破壊命令だ。天皇をかきにきての当局の高圧的な無法の前に、受諾するより道がない。信者の手で壊すに志びずとして、王仁三郎は官憲の手で破壊することを依頼した。神明造りの神殿は七月二十二日、拝殿は八月に完成したばかりで、木の香もかおる真新しきである。建築費三十九万円、地ならし、付帯設備も含めて六十万円という巨額の出費は、信徒たちの神に捧げた誠心の結品であった。事件が起こった二月には、本宮山拝殿はまだ上棟式が終ったばかり。営々と築き上げるのを横目に見ながら、完成を待って破壊を命じる。国家権力の悪意と凶暴に、信徒たちは悲憤の涙を呑むばかり。教団は最悪の状態に追い込まれた。十月十三日に大日本修斎会の役員、幹部は責任をと五章。って総辞職。「皇道大本」は単に「大本」と改称され、教団の組織や人事は大幅な刷新が行なわれた。二代教主出口澄、教主輔王仁三郎は引退し、代わって三代直日(二十歳)、大二(十九歳)が教主補に就任する。大二は大本の地方有力信者の吉田竜治郎の三男で、出口家の養子になり、直日と婚約していた。このような切迫した状況のため、神命とはいえ、王仁三郎には霊界物語執筆の時聞が生み出せない。気に病みながら日が過ぎたが、十月十七日の夜半、出口直の神霊が王仁三郎の枕元に現われて、馬に鞭打つように指示樟(かん)で畳を三、四回たたく。霊界物語発表の催促だと気づいた王仁三郎が、「明日から口述を始めますから、ご安心下さい」と答える。直はうなずき、にっこり笑って姿を消した。翌十八日(旧九月十八日)、王仁三郎は朝から口述を始める。同じ日、三代教主直日が祭主になり、綾部在住の役員信者だけで神殿告別式と昇神祭が涙のうちに行なわれる。地方の信者に連絡する時間的ゆとりはなかった。直日は歌う。おろがむも 今しばしぞと本宮山の 峰をあおげば月はくまなき天地の しじまの中に虫の声 わがすすり泣き川のせせらぎ二日後の十月二十日(旧九月二十日)、警察当局によって、本宮山神殿破壊が開始された。午前中は瑞垣(皇居、神社の廻りの垣根。神垣・玉垣)を、そして手垢一つついていない神殿破壊が始まったのは、何と「掃き寄せ集」で予言された旧九月二十日午後一時。当時の模様を偲ぶために、『大阪朝日新聞』の記事を抜粋する。先ず 玉垣の銅板から剥がし始めた本宮山神殿柱を抱いて泣き合う信者の群
大本教本宮山神殿の取毀しは愈々二十日の朝から着手された。京都府警察部からは今江警部が十名の警官、工事請負の鈴木久氏が二十名の人夫を引率し朝の十時半綾部駅に到着。一向綾部警察署に集合し昼食を了(おわ)り、今江警部は先づ取毀しに就て人夫に「信者の反感を買わぬようにすること。次に工事は破壊ではなくて取除けの心持ちを忘れぬ様にすること」と訓示し、一同は十分の気合いを呑み込み愈々十時十五分警察署を出発した。各人夫は紺の法被(はっぴ)に白襷(しろたすき)十文字に綾取り赤木綿の、捩(ねじ)り鉢巻きで、何れも掛矢、鶴橋、金槌、梯子等を担いで行人監視の中を、大本教が神聖不可侵の地と定めた本宮山上に乗込んだ。
突然、吉良邸の討ち入り 光景はむしろ悲惨
やがて十一時四十五分に及んで、さあ始めよとの親方の指揮に、先づ楼門続きの玉垣の上にバラバラと駆上る態は、まるで赤穂義士の吉良邸打入りの光景である。いよいよ玉垣屋根の鋼板を剥ぎ放す音から始まり、メリメリ丁々と異様な響きが空に伝はる。並松橋畔の中野鉄山氏の別荘に神経衰弱になって寝てゐる王仁三郎は、これを耳にして、目を瞑り胸を抑えて仰臥していたということである。この日警官は本宮山の四面を囲んで一般の入場を防いでいた。御神体を前日教祖殿へ運んで空虚になった神殿には、三々伍々信者が額(ぬかづ)き、祝詞を捧ぐる老人もあり、涙をたたえて拝む妙齢の美人もある。中には柱を抱いて泣くのもあった。栗原臼嶺(大本幹部)氏の如き熱涙滂沱(ぼうだ)として作業を見ていた。こうして表面静穏裡にある大本信者も油断はできないとあって、警官隊は出動準備甲斐々々しく警察署に控へていた。天から降ったか地から湧いたか工事開始と同時刻に、突如として三千五百名の在郷軍人団が綾部町に現われた。是は何鹿郡在郷軍人の総動員で、本宮山下の小学校に集合し、行動ラッパで付近を練歩く。余所ながら警戒の用意と見られた。綾部町が国旗を掲げたのは折柄の大本教に皮肉に見られた。この日早朝本宮山の警戒が始まらぬ折柄、愈々最後の見物にと押かける者の中には、故意と神殿に向って妙なことをするものがあり、信仰と恨みがゴッチャになって悲喜劇を繰返した。瞬く間に長さ五十九間の透(すか)し塀は全部取毀され、三棟の神明殿、十曜金色の定紋眩き内陣の扉も、異様の音響と共に雨中にホリ出された光景は寧ろ悲惨であった。欄干も型なく取毀され、愈々楼門の取段ちに着手されたのは午後二時であった。
記者も興奮していたのか、熱の入った文章だが、引用の記事で「朝の十時半に綾部駅に到着、昼食を了り」と書きながら、一方では「十時十五分に綾部警察署を出発した」とあるのは、明らかに誤報だ。当時は通信網が発達していないので、翌朝の新聞に間に合わせようと思えば、読み返す時間もなかったのであろう。ところで報道では、王仁三郎は「中野鉄山氏の別荘に神経衰弱になって寝てゐる」とあるが、これも記者の想像の産物か、警察が故意にリークしたものであろう。ではこの時、王仁三郎は何をしていたか。
神殿が破壊されている同時刻、王仁三郎は神経衰弱になるどころか、本宮山の下にある中野鉄山(本名は岩太)の別荘(祥雲閣とも松雲閣ともいう)で神殿破壊の音を間近に聞きながら、新教典となる霊界物語の口述を始めていたのである。霊界物語第一巻「序」の末尾に、「大正十年十月二十日午後一時」とわざわざ時間までしている。新と旧の月日と口述場所、筆録者名は各章の後尾に必ず記入しているが、時間までのは珍しい。まさに神と悪魔の二大勢力の対決の時。しかもこの日、口述された内容は第一巻第二篇「幽界より神界へ」の第十八章「霊界の情勢」から第二十二章「国祖御隠退の御因縁」まで。大過去の過去において三つどもえの邪気が凝って生じた邪神界の暴挙によって国祖を艮に封じこめるに至った経緯を、王仁三郎は大現在の現在に引き寄せて物語ったのである。霊界と現界入り乱れての凄じい激突であった。その筆録者が後に「生長の家」を創始する谷口正治(雅春) である。