第三次大本事件の神意とは
平成二(一九九O)年八月六日朝、瑞生祭(王仁三郎の生誕を祝う祭)前日のこの日、予定されていた愛善苑での記念講話の構想をまとめていた。大本教団本部と「出口直美さまを守る会」との教主の座をめぐっての闘いは熾烈になるばかりだが、愛善苑では物語拝続と対外宣教に力を入れ、私にとっては改革運動が遠い過去のできごとのように薄らいでいた。私はもしかしたら、第三次大本事件はもう終わっているのではないか。第二次大本事件は昭和十年十二月八日に始まり、十七年八月七日に王仁三郎が保釈出所し、三年一月一日後の昭和二十年九月八日の大審院判決で終わった。太平洋戦争は昭和十六年十二月八日に始まり、昭和二十六年九月八日のサンフランシスコ講和条約で終わる。六年のずれでともに九年九ヵ月。すると二度目の愛善苑が「かがみ」の役割を担っているなら、王仁三郎の入獄に相応する「いづとみづの会」設立の昭和五十五年三月九日に始まって九年九ヵ月後、また愛善苑設立(王仁三郎の保釈出所に相応)の昭和六十一年十一月七日の三年一月一日後ではないだろうか。それはいつかと言えば、年号が平成と変わった平成元(一九八九)年十二月八日。十二月八日という日は、日本人にとっては太平洋戦争開始の日、大本信徒にとっては第二次大本事件勃発の日というダーク・イメージがつきまとうが、われわれ愛善苑の会員にとっては最初の愛善苑発足宣言の記念日である。そして平成元年十二月八日、愛善苑では木の香も新しい愛善苑会館で、私はそれとも知らず斎主として奉仕していたのである。一九八九年一月七日は昭和天皇の崩御という日本の長い時代の終わりで、年号も昭和から平成へと改まる。この日、熊野館では新年祭が執行され、私は斎主を勤めたが、急速祝詞に、「午前六時三十三分裕仁天皇かくりまして激動の昭和の御代も終わり、新しき時代になりつるを」と書き加え、奏上しながら深い感動を覚えたものである。この日は旧暦で言えば十一月三十日、まだ昭和六十三年である。昭和三年三月三日の弥勒下生を祝う六十年が天皇の死で終わるのも、何かの因縁に思える。この年、リクルート事件で国会は大揺れに揺れる。首相は竹下、宇野、海部と三人も変わり、第十五回参議院選挙では自民党が惨敗、社会党と初登場の連合が大躍進し、与野党の逆転を見る。四月十五日、円相場が急落し、一ドル百五十一円三十銭。八月一日、東証ダウ、初の三万五千円台に達する。十一月十五日、神奈川県警は横浜の弁護士坂本堤(さかもとつつみ)一家三人の失踪に関し、拉致疑惑で公開捜査に踏み切る。同じ年、天安門事件が起こり、世界の目は中国に向けられた。世界もまたベルリンの壁の崩壊と東欧の民主革命に代表される大波乱に揺れる。愛善苑にとっても、画期的な年であった。春には今まで外部では手に入らなかった『霊界物語』(力)が初めて八幡書店で刊行され、それに接して道を求める新しい会員が増加した。私も初めて外国宣教へと踏み出し、イタリアへ教えを広める。年月かけて討議してきたご神号が総代会(七月十九日~二十一日)で「神素盞嗚大神」(霊)と全員一致で定まった。そしてこの夏、私たちの活動拠点である愛善苑会館(体)が完成、八月七日の瑞生祭で神素盞嗚大神のご神号が万感こめて奉唱された。私たち愛善苑の霊、力、体がそろうのを待って、十二月八日、神は第三次大本事件にピリオッドを打たれたのだ。愛善苑は発足から丸一年後の昭和六十二(一九八七)年十一月六日、宗教法人化の手続きのため、法人認証申請書を京都府知事に提出した。事務局では書類提出の日を発足一年の十一月七日にする予定だったが、司法書士の「大安の日がいい」という強い勧めに従い、一日繰り上げたもの。ところが後で気がついたのは、十一月六日は出口直没後六九年であった。ようやく認可がおり、十二月一六日、宗教法人の登記が行なわれた。司法書士の意見を尊重して、一番近い大安の日が選ばれたわけである。後で気がついたのだが、この日は出口直百五十一年の誕生目だった。私はそれを知った時、偶然とはいえ、何か濡れた肌着をつけたような違和感があった。できれば愛善苑の発足に当たっては、永遠の苑主である出口王仁三郎にちなむ臼であってほしかった。私たちは大本改革運動の苦しい戦いの中からようやく宗教法人「愛善苑」再生にたどりついたが、その手続きの段階から、大本と同じく出口直がからみつく。果たして神意は?私はすぐに思い返す。神は宗教法人「愛善苑」、すなわち真正の大本(世界の大本。現在の大本教団にはあらず)の初発に当たって、まず出口直因縁の日から歩み出させたのではないか。