第五章 出口王仁三郎が予言する゛人類の未来゛

 まず「事がらを述べて、時期を発表しない予言」である。王仁三郎は『神霊界』大正六年十二月号、翌七年一月号、二月号に「大本神歌」、「いろは歌」の一連の作を発表した。これは神がかりによって王仁三郎が一気に筆を走らせたものだが、のちに『瑞能神歌』として小冊子にまとめられた。これが確証されるのは、二十六、二十七年後の第二次世界大戦を迎えてからである。だが『瑞能神歌』が信者に与えた影響は大きく、暗譜する人たちもあった。たくさんの飾り言葉や腕曲な言い回しでくるみながら、言論弾圧の激しいさなか、政府への迎合にも心を使いつつ、それでも警告するのには、大変な勇気と決断を要したことであろう。[大本神歌]東雲(しののめ)の空に輝く天津日の、豊栄昇る神の園、四方に周らす和田の原、外国軍の攻難き、神の造りし細矛(くわしほこ)、千足の国と称えしは、昔の夢となりにけり。今の世界の国々は、御国に勝りて軍器(つわもの)を、海の底にも大空も、地上地中の撰みなく、備え足らはし間配りつ、やがては降らす雨利加の、行く末深く憐れみて、明治の二十五年より、露の玉散る刃にも、向ひて勝を取らせつつ、猶外国(とつくに)の襲来を、戒しめ諭し様々と、神の出口の口開き、宣らせ給へど常闇の、心の空の仇曇り、磯吹く風と聞流し、今の今まで烏の耳、風吹く如き人心、あゝ如何にせん戊(つちのえ)の、午の春夏秋に懸け、心落ち居ぬ荒波の、中に漂ふ苦みは、神ならぬ身の知る由も、なく泣く縋る神の前、水底潜る仇艦と、御空に轟ろく鳥船の、醜の荒ぴに悩まされ、皆散り散りに散り惑ふ、木の葉の末ぞ哀れなる。
大本神歌大正六年十二月一日一 東雲の空に輝く天津日の、豊栄昇る神の国、四方に周らす和田の原、外国軍の攻難き、神の造りし細矛、千足の国と称えしは、昔の夢と成りにけり。今の世界の国々は、御国に勝りて軍器を、海の底にも大空も、地上地中の撰み無く、備え足らはし間配りつ、やがては降らす雨利加の、数より多き迦具槌に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る国民の、行く末深く憐みて、明治の廿五年より、露の玉散る刃にも、向ひて勝ちを取らせつゝ、猶外国の襲来を、戒しめ諭し様々と、神の出口の口開き、詔らせ給へど常暗の、心の空の仇曇り、磯吹く風と聞流し、今の今まで馬の耳、風吹く如き人心、アゝ如何にせん戊の、午の春夏秋に懸け、心落ち居ぬ荒浪の、中に漂ふ苦しみは、神ならぬ身の知る由も、なく泣く縋る神の前、水底潜る仇艦と、御空に轟ろく鳥船の、醜の荒びに悩まされ、皆散り散りに散り惑ふ、木の葉の末ぞ哀れなり。二 聯合の国の味方と今迄は、成て竭せしカラ国の、悪魔邪神が九分九厘、モウ一厘の瀬戸際に、旗を反すと白露の、其振舞いの非義非道、凡ての計画を狂はせて、勝つ可き戦争の負げ始め、永びき渡る西の空、黒雲晴るゝ暇も無く、独り気儘の仕放題、印度の海も掠め取り、茲にも深き経綸為し。次いて浦塩日本海、我物顔に跳梁し、卜ン/\拍子に乗り出して、神の御国を脅迫し、モウ一ト息と鳴戸灘、渦巻き猛る荒浪に、大艦小船残り無く、底の藻屑と亡ぶるも、綾の高天に最と高く、空に聳えし言霊閣、天火水地と結びたる、五重の殿に駆け登り、力の限り声限り、鳴る言霊の勲功に、醜の鳥船軍艦、水底潜る仇艇も、皆夫れぞれに亡び失せ、影をも止めぬ惨状に、曲津軍も慄のきて、従ひ仕え来る世を、松と梅との大本に、世界を救ふ艮の、神の稜威ぞ尊とけれ。三 綾の高天に顕はれし、国常立の大神の、神諭畏こみ謹みて、厳の御魂と現はれし、教え御親の神勅に、日清間の戦ひは、演劇に譬えて一番叟、日露戦争が二番叟、三番叟は此度の、五年に渡りし世界戦、竜虎相打つ戊の、午の年より本舞台、いよ/\初段と相成れば、西伯利亜線を花道と、定めて攻め来る曲津神。力の限り手を尽し、工夫を凝らし神国を、併呑せんと寄せ来り、天の鳥船天を蔽ひ、東の空に舞ひ狂ひ、茲に二段目幕が開く。三段いよ/\開く時、三千余年の昔より、国の御祖の選まれし、身魂集る大本の、神に仕えし神人が、御祖の神の給ひたる、日本心を振り起し、厳の雄猛び踏み猛び、厳の身魂を元帥に、瑞の身魂を指揮官に、直日の御魂を楯と為し、何の猶予も荒魂、爆裂弾の勇ぎ能く、神の軍の奇魂、奇しき勲功は言霊の、天照る国の幸魂、言平和す和魂、魂の助けの著るく、轟く御代を松の代の、四十有八の生御魂、言霊閣に鎮まりて、四方の国々天の下、治めて茲に千早振、神代乍らの祭政一致、開き治めて日の本の、現津御神に奉る、常磐の御代ぞ楽しけれ。四 カラ国の天に漲る叢雲も、砲烟弾雨も晴渡り、日の出の守護と成るなれば、斯上無き御国の幸なれど、十重に二十重に累なりし、糸のもつれの弥繁く、解る由なき小田巻の、繰り返しつゝ行く程に、東の空にもつれ来て、退くに退れぬ破目と成り、弥よ/\出師と成る時は、五十余億の軍資をば、一年経ぬ束の間に、烟散霧消の大惨事巨万の生霊土と化し、農工商の国本も、次第/\に衰ろヘて、青菜に塩の其如く、彼方此方に溜息を、吐くぐ思案に暮の鐘、進退爰に谷まりて、天を拝し地に伏し、狼狽さわぐ弱虫の、カラの身魂は自から、現はれ狂ふ憐れさよ。然れど日本は千早振、神の守りし常磐国、国の真秀国珍の国、神が表面に現れまして、御国を守り給ひつゝ、世界を救ひ玉ヘども、未だ/\心許されぬ、一つの国の御空より、降る雨利迦の一時雨、木枯さえも加はりて、山の尾の上の紅葉も、果敢なく散りて小男鹿の、泣く声四方に竜田山、神のまに/\四ツの尾の、山の麓の竜館、集り居ます神々の、厚き恵みに照り返す、紅の楓葉の、元の姿ぞ目出度けれ。
「神霊界」大正七年二月号 (大正六年十二月一日)「大本神歌」発表の前後から、綾部の大本を訪ねる軍人将校の入信者が急速に増えていく。浅野和三郎や秋山真之の入信もこの頃である。彼らは、「今までロシアを仮想敵国にしていたが、本当の敵は米国(雨利加)らしい」と気づき、軍部へ意見を具申した。そのため日本の戦争準備は、米国を仮想敵国として大きく展開したといわれる。「大本神歌」(一)では、日本の行く末を憐れみ、明治二十五年から様々に警告し、日露戦争(露の玉)にも勝たせ、なお外国の襲来を戒めたが、やがてアメリカの降らす迦具槌(火の神)で打ち砕かれ、制空権も制海権も奪われるという。戊の午というと大正七年。第一次大戦の終結の年である。 (二)では、第二次大戦で、日ソ中立条約の提携国ソ連が土壇場で裏切ることも書かれている。ソ連参戦については、霊界物語四十三巻『狂風怪猿』で、比喩的に述べられている。三五教の宣伝使玉国別、三千彦、真澄彦、伊太彦は河鹿峠の急坂を下る途中、記録破りの烈風を避けて懐谷に休息するうち、幾千とも知れぬ猿の大群に取り囲まれる。伊太彦が力に任せて間近に来た猿を押し倒したのがきっかけで、猿たちは四人に襲いかかる。すると背後から来た白毛の大猿が玉国別の目をかきむしる。宣伝使一行は必死で防戦するが、多勢に無勢、まさに命も危ない時、巨大な獅子にまたがった時置師神に助けられる。失明した玉国別は川の水で腫れ上がった両眼を丁寧に洗い神に真剣な祈りを捧げるや、左目はたちまち開眼した。第二次大本事件の前、王仁三郎は語っている。「玉国別は日本の使命を現わし、精神的な世界統一のことだ。従者の道彦(のち三千彦と改名)は大本教団であり、伊太彦は軍人であり、純公(真澄彦〉は正しい日本国民である」敗戦が濃厚になった昭和十九年十一月三日、王仁三郎は信者の木庭次守に語っている。フィリッピンは日本の坤(西南)である。昨年は未、今年は申である。今は小猿が暴れている所である。うしろから白露の大猿が出て来て目をひっかく時が大変である。霊界物語の玉国別は日本のことを書いたのである。(『新月のかげ』)これを語ったのは、ソ連参戦の九ヵ月以上も前のこと。絵解きをされてみると、河鹿峠の遭難は、第二次世界大戦前後の国際情勢の推移と日本の帰趨が予言されていることに気がつく。王仁三郎は外国を猿に例えているが、戦時中、子供だった私たちは米英をヤンキー、モンキーと差別的な言葉で侮辱したことを思い出す。昭和十六(一九四一)年七月、米英は日本在外資産を凍結し、A(米) B(英 )C(中国) D(オランダ)包囲網を敷き日本を経済的に封鎖しようとしたのは、まさにじりじりと猿の大群が輪をせばめ、つめ寄る状況ではないか。その重圧に耐えかねて、軍部(伊太彦)は米英(猿の大群)に先制攻撃をかけ、泥沼の戦争へと突入する。もし玉国別に本当の英知が備わっていれば、猿をなだめる別の方法もあったろうに。乱戦の最中、玉国別を背後から襲った臼猿(ソ連)に両眼をかきむしられるが、第二次世界大戦の帰趨の見える昭和二十年八月八日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ満国境を越え、光を失った日本人はおびただしい孤児たちを置き去りにして逃げ、無惨な敗戦に至る深傷を負う。両眼を失明した玉国別が真剣に神に祈って左目を開眼するが、それは日本がドイツのように分割占領される悲劇をまぬがれ、戦後比較的順調に復興できたことに相応するのではないか。失明した玉国別が真剣に神に祈るや…とあるが、王仁三郎は獄中より妻にあて切々たる葉書を出している。「いかなることがありとも、右三ヵ所(綾部、亀岡、穴太)の土地は一坪たりとも売却いたさぬ覚悟…」昭和十一年三月十日、綾部署は王仁三郎の妻の二代教主出口澄を連行、「一切を清算せよ」と、澄の名義である土地(綾部・亀岡・穴太)譲渡の委任状に捺印を迫る。澄は屈せずつっぱねる。「大本は日本のひな型、大本で起こったことは必ず日本に、世界に写る。この神苑を手渡すことは、やがて日本が外国に奪られる型になると、神さまが言われますのや。それでも捺印をせいと言うのなら、私を殺してからにしなはれ」それからの六年四ヵ月(王仁三郎より四ヵ月短い)、澄は牢獄の中で明るく生きる。命を張って王仁三郎、澄が守ろうとした神苑は、法外な安値で、強権をもって綾部、亀岡の両町に売却させられる。土地返還の民事訴訟は昭和十三年五月より粘り強くくり返されたが、敗戦後の九月に至って綾部、亀岡の両町は無条件返還を可決する。ついに大本は神の意志を貫いて、寸断されることもなく、すべての神苑を奪還したのである。左目開眼である。日本もまた六年八ヵ月にわたって占領されるが、寸断されることなく(沖縄をのぞく)返還された。(三)では、芝居にたとえ、大きなあらすじを述べる。日清戦争が一番叟、日露戦争が二番叟、第一次大戦は三番叟。第一次大戦は三国同盟(独・日・伊)と三国協商(英・仏・露)との対立を背景にした世界的規模の帝国主義戦争であった。いよいよこの年から本舞台の初段に入る。昭和六(一九三一)年九月十八日、王仁三郎の予言通り満州事変が勃発するが、「西伯利亜線を花道」の言葉から、大本ではシベリア線につながる満鉄が導火線になって、やがては日本対世界の戦争につながると理解し、『瑞能神歌』を再刊する。しかし翌七年二月一日には当局の忌諱にふれ、発売禁止になる。信者が王仁三郎に二段目の省略されている理由を聞くと、「二段目か、ウーム、むごたらしゅうて書けるかい。これ以上書いたら、首が危ない。お前ら、『いろは歌』と合わせてよう判断せい」と答えている。ともかく、二段目は満州事変以後のかなり長期にわたる予言と考えられる。「四十有八の生御霊」とあるが、昭和十七年七月三十一日、第二次大本事件の第二審判決が行なわれた。被告は王仁三郎ほか四十八人。王仁三郎以下八人の不敬罪こそ有罪であったが、弾圧の主要目的である治安維持法違反はすべて無罪であった。 (四)は第二次大戦によって多くの死者を出し、国民は困苦欠乏し青菜に塩で意気阻喪する。そこで神が表に現われて日本を守り、世界を救う。だがこれですんだわけではない。「降る雨利加の一時雨」で一時日本は占領される。「山の尾の上の…」以下は天皇が現人神の座から滑り下り、人間宣言の後、「紅の楓葉の、元の姿ぞ目出度けれ」で国民の象徴となる天皇の身の激変を暗示したものと思う。大正初期、日中戦争から日米戦争への大筋、土壇場でのソ連の参戦、日本帝国の滅亡、アメリカの占領、天皇の運命…当時において、これらの予言がいかに危険なことか。詩の形式を借り、古典的な言い回しでいかにごまかしても、読めば見当がとれよう。発禁はおろか、投獄をも覚悟せねばならなかった。
大正初期に予告一目された「いろは歌」の驚えべき正確性[いろは歌]
○りう球につづく台湾ボウコ島、御国に遠きこの島に、心を配れ日本人、外国魂のこゝかしこ、国売る曲の多くして、主人の留守の間鍋たき、柱を崩すカミ斗り、ヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨リカを妨ぐ由なし。

 [り]う球につづく台湾膨湖島、御国に遠きこの島に、心を配れ日本人、外国魂のここかしこ、国売る曲の多くして、主人の留守の間鍋たき、柱を崩すカミばかり、ヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨リカを防ぐ由なし。Oをに大蛇狼よりも恐ろしき、異国魂の奸計(まがわざ)は、口に蜜をば含みつつ、尻に剣持つ蜂の如、大砲小砲の兵器を、残らず反古の紙と為し、尻の穴まで見済して、時待つ時の火車を、御国の空に轟かし、掠め取らんと曲津神、企みは実にも良けれども、日本の国は昔より、神の御幸ちの強き国、人は三分に減るとても、神の身魂は永遠に続く常磐の神国ぞ、異国魂の世の末と、成り定まりし幽世の、神の経綸も白人の、世の終りこそ憐れなりけり。
Oねの国に落行く霊魂を救はむと、厳の御魂の大御神、瑞の御魂と諸共に、綾の高天に現はれて、竜宮館の渡し場に、救世の船を浮べつゝ、待たせ給へど烏羽玉の、暗に迷ヘる人草は、取り付嶋も荒塩の、塩の八百路の八塩路の、浪に漂よい迷ひつゝ、沖の彼方ヘ走せ行くを、救いの船に棹さして、呼ベど叫ベど不知火の、浪のまに/\隠れつゝ、海の藻屑と鳴戸灘、危ふき渦に近寄りて、行衛も波の底の国、流れ行くこそ悲しけれ。
Oくに挙(こぞ)り上は五十路(いそじ)の老人より、下は三五の若者が、男、女の別ち無く、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず、遠津御神の造らしゝ、御国を守る兵ものと、日本心を振起し、伊都の雄猛び踏み健び、厳のころびを起しつゝ、海往かば水潜(く)しかばね山往かば、草生す屍大君の、御為(みため)に死なむ徒(いたづ)らに、閑(のど)には死なじ一足も、顧みせじと弥進み、いや迫りつゝ山の尾に、追伏せ散らし川の瀬に、追払ひつゝ仇軍、服従(まつろ)え和して浦安の、御国を守れ秋津人、現津御神と大八洲、国知食す天皇の、高き恵みに酬えかし、日本島根の神の御子。「いろは歌」の中の予言と思われる歌を抜粋した。第二次大戦を体験した人なら、「お」や「〈」の項など余りにも生々しく、これが果たして大正初期に予言されたことかと、目を疑うだろう。また「り」の項などでは、琉球、台湾、膨湖島の何やらあやしい気配を指摘し、やきもき(ヤンキーモンキー)さわいでも、攻め来るアメリカを防ぐ方法がないと断じる。「を」や「れ」の後半は一見日本の勝利の予言かに見えるが、他の項と照らし合わせれば、当局に対してのめくらましであることは言うまでもない。これほどまで的確に未来を予言した人が今まであったろうか。
「時期が解った予言」をどう伝えたか「時期が解りながら、その時、何が起こるか解らない予言」を示そう。大正七年六月に王仁三郎が詠んだ歌である。神の国大く正しき十年の 正月五日は吾れ悩ましも「大く正しき十年の」は大正十年をさす。そして神示の場合、月日はほとんど旧暦で示される。大正十年旧正月五日は新暦で二月十二日。何が起こるか不明だが、王仁三郎に何か忌まわしい出来事が起こるらしい。そして起こってから、なるほど、このことだったのかと納得する。大正十年二月十二日、大阪梅田の大正日日新聞社で起臥し筆をとっていた王仁三郎は、静かに検挙される。第一次大本事件の勃発である。この事件で役員信者たちが比較的平静であったのは、すでに『神霊界』で弾圧を暗示するような筆先が掲載されていたからである。ちなみに直のひらがなばかりの筆先を王仁三郎が整理し、漢字や句読点をつけて発表したものを「表の神輸」といい、直の生前に示した王仁三郎の筆先を「表の神諭」に対して「裏の神輸」という。さらに直の昇天(大正七年十一月六日)後に王仁三郎の示した筆先は「伊都能売(いづのめ)神諭」と呼ばれる。『神霊界』(大正八年二月一日号)で発表された表の神論の一節を引用する。…艮の金神の教が広まるだけ、世界は騒ぎ出すぞよ。何もわけも知らずに方々の新聞が悪く申して、体主霊従の行り方で邪魔を致すようになるから、其覚悟で胴を据えておらんと、一寸のことに心配致すという様な人民でありたら、肝心の御用がつとめ上がらんから、この大本は世聞から悪く言われて後で良くなる経論であるぞよ。(明治三十三年旧正月七日)伊都能売神論はさらに具体的に示す。三年先になりたら余ほど気をつけて下さらんと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛の酉の年は変性女子(王仁三郎)に取りては、後にも前にもないような変わりたことができてくるから、前に気をつけておくぞよ。(大正七年十二月二十二日)辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替え立直し、凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組。(大正八年一月二十七日)「三年先(大正七年から)になりたら」も、「辛の酉」も大正十年に当たる。「紀元節」に王仁三郎の拘引が発せられ、翌十二日に検挙される。「四四十六の花の春」は大正十六年、すなわち昭和二年五月十七日に免訴となり、事件が解消する。嬉しい花の春だ。「凡夫の耳も菊(聞く)の年」とは、マスコミが当局による捏造をまじえておもしろおかしく報道し、「立替え立直し」の予言が万人の耳をそばだてたこと。「九月八日」は大本にとって因縁の日で、王仁三郎に霊界物語の口述の神命が下る。また昭和二十年九月八日、大審院の判決により、第二次大本事件が終わる。