謎のことば「三度目は竹だ」

 大審院の判決で第二次大本事件が解決するが、王仁三郎の言葉がひそかに伝えられる。「大本事件はこれで終わったわけではない。大本事件は三度まである。松竹梅事件じゃ」第一次大本事件で王仁三郎は大阪梅田の大正日日新聞社社長室から、第二次大本事件では島根の松江から検挙される。三度目は「竹だ」だという。その心は、邪神は大本をつぶそうと外部から二度まで襲ったが、殻が固くて目的を達しなかった。竹は内がカラだから、第三次大本事件は内から起こるという。私たちはそれを聞いても、二度までもあれほどの苦しみをさせておきながら、もしそれが神の仕組なら、余りにも神は残酷だ。おそらく王仁三郎お得意の駄酒落で、役員信者の心を引き締めさせようという配慮だろうと本気に受け取らなかった。昭和二十三年一月十九日午前七時五十五分、王仁三郎はみなに見守られながら、昇天する。満七十六歳六ヵ月の波乱の生涯であった。王仁三郎の昇天によって、妻の澄が二代苑主に就任、迫力ある指導ぶりで教団の先頭に立つ。昭和二十四年十月二十九日、「愛善苑」は「大本愛善苑」と改称する。澄が「大本」の名を用いることを望んだからという。だが今にして思えば、古い大本の殻をいっさい投げ捨てて新生しようとした王仁三郎の意図が早くも裏切られた兆しといえよう。昭和二十七年三月二十八日、綾部では春の大祭に引き続き「みろく殿」の上棟式が行なわれたが、澄は面会謝絶の病臥中で、亀岡から綾部に思いを馳せ、「今ごろは餅を撒(ま)いているやろうなあ」とつぶやき、小声で棟上げの音頭を歌い出した。翌二十九日には、「八百八光のほととぎす、声はすれども姿は見えぬ。金勝要(きんかつかね)神(大地の金神)はかげから守りておる」といい、これが辞世の歌となった。出口直の「二代の世は短いぞよ」という予言通り、三月三十一日午前八時二十五分、王仁三郎の昇天後四年余にして、看護の人も気づかぬほど安らかに昇天した。その翌四月一日、「大本愛善苑」 の名称を昔の「大本」に戻す。そして長女直日が苑主ならぬ教主に就任する。それが合図かのように、教団は急激に変質する。まさしく王仁三郎の予言が実現したのである。教団の中には、王仁三郎没後、出口栄二(直日の長女であり、四代継承者直美の夫)と出口京太郎(直日の長男であり、直美の弟)を長とするこつの派閥ができ、互いに自派の勢力の拡大をはかっていた。私の父出口伊佐男は王仁三郎と澄と共に六年八ヵ月の獄中を経て、愛善苑発足後も長く教団の中枢にいたが、昭和四十八年二月、寝屋川市の藤本病院に入院した。院長夫人は母の姪である。院長の診断は、癌がすでに上腹部いっぱいに上がって腹水もあり、余命は早くて一ヶ月、いわば医者がサジを投げた状態であった。恐れていた末期癌特有の苦しみもないままに病状は進行し、五月四日、昏睡していた父はふと目を開けて聞く。「いよいよ最後のあれを言わねばなりませんか」私は鉛筆とメモを出し、身構えた。たちまち病室は近親者で身動きできぬようになる。父の遺言は低い途切れがちの声ながら、一時間半にわたって続いた。時には笑顔を浮かべ、冗談を言い、緊迫の病室に笑い声さえ起こる。大本、人類愛善会、世界連邦について語り、一人ひとりに礼を言い、挨拶を述べる。「ようやくお迎えが来たようです。(笑って)もう少しこの世で御用があると思っていたが、残念です。でも聖師さま、二代さまのおそばへ行けて嬉しい。…私が大本の中をまとめようと努力したが(教団の中の二派の派閥による激しい葛藤の中で、父は和合させようと苦しんでいた)、和明も私の心は分かっていてくれるだろうから、後を継いで私の遺志を果たすように…私は幸せだった。教主さま、日出麿先生(直日の夫。三代教主補)にもう少しお仕えさせて項きたかったが、補佐できなかったので申しわけなく思っています。わしはまだまだ日があるかと思っていたので、十分お話合いもできなかった。けれどもうそれは…」その夜、三代教主の伝言が届く。「和明を斎司(出口家九家の中から一人ずつ選ばれ、教主を補佐する)にして宇知麿(大本での父の名)の後を継がせるから、安心するように」父は嬉しげにうなずいた。ずっと教団の外で生きていた私にとって、思いもかけぬことであったが、教主と死に行く父との約束をむげにはできず、父の死後、私は教団の斎司と大本教学委員に就任することになる。さらに直日の伝言は続く。「梅松館(直日の私邸)の能舞台がきれいだから、そこで密葬してはどうか、遺体は直接病院から梅松館へ運んでほしい」深く考えもせず、私は直日の言葉をすべて正直に伝えた。こうなってはついでである。夕方本部役員と打ち合わせた通り、本葬は本部葬として死後十日目に天恩郷で執行することを告げ、父の意見を聞いた。黙って聞いていた父は、思わずふき出す。死に行く者に葬儀の相談をしかける息子はやはりおかしいに違いない。しかたなく私も笑いだし、あたりにも笑いが伝染して、笑いが止まらない。「ありがとう、最高の栄誉です。何もかも言ってくれて、あちら(天国)に行ってから、くわしく報告ができるよ。…たんばぢ(熊野館の地続きのドライブイン。父名義の田を埋め立て、昭和四十八年二月二日開店。その前日、たんばぢで父の古稀の祝いをする)ができたから、うちの台所が広くなったようなものだ。そこで告別式に来てくれた人たちにおもてなしを••••」ずっと親身になって看病してくれた西田婦長には、「私の葬式には、婦長さんも来て下さいね」婦長は手を合わせ、「ご本人さんから葬式のご招待を受けたのは初めてです」と泣き笑い。翌五日、「わしの着る白い着物(死装束)、用意できているんだろう」「はい、立派なものが。…お見せしましょうか」父がうなずく。父にひとつひとつ見せる。新しい下着一式に羽二重の十曜の神紋つきの純白の着物と羽織、紋どんすの袴、足袋、白扇…。「豪華だね」と父は嬉しそう。紙一枚無駄にしなかった父の、最後の賛沢であったろう。私は祝詞や賛美歌のほかに棺に入れる物を相談する。長年愛用の古びた父の時計。それなしではすまされぬ父の日常であったから、それを入れることを提案する。「それはいらない。とこしえの世界へ行くのだからな。霊界へは意志想念で持っていくから、棺の中には何も入れなくていい」これらの会話は日常会話でもするように淡々とかわした。「最後はいつ…臨終はどこでするのか」黄昏が追っていた。決然として、父は言う。「今から亀岡に帰りたい」「そんな…動かすなんて、むちゃや」と、誰かの声が聞こえた。「臨終は車の中でもいいんだよ」と父が軽く言った。私の心が喜びで震えた。父がその覚悟なら、途中で死んでも、意思想念だけでも亀岡へ向けて死なせたい。まるで全快した人が退院するように、病室は活気づいた。担架で父を病院専用の寝台車に運びこむ。生きたまま亀岡へ運ぶ自信など誰も持てぬ。院長も婦長も私も妻も乗りこむ。決死のドライヴであった。空には、鎌の刃先のような月が光っていた。曲がりくねった老いの坂(京都から亀岡へ入るまでの険しい坂。かつては明智光秀が亀岡からこの坂を越えて本能寺の織田信長を襲い、第二次大本事件では武装警官隊が逆に京都から亀岡へ向かい、大本を襲った)を越える。車は振動が激しく、父の頭は上下に動く。その頭を、車に酔った婦長が必死で支える。私は通過している場所をそのつど教える。父はうなずいて聞いていた。一時間十五分後、直日や役員信者、多くの人が待ち受ける熊野館へ安着し、父の仕事場であった書斎にかつぎこむ。「老いの坂越えて…帰ってきたんだな。ここ、わしの部屋?」かすんだ瞳で、不思議そうに室内を見回す。うず高く積まれていた書類や筆先の山が消えていた。「お筆先は…どこ、お筆先は?」「大丈夫、すぐ分かるように整理して、押入れにしまってあります」「わしでなければ…分からないメモがあるんだ」仕事へのすさまじい情熱。父の仕事にかける執念を見る思いがした。熊野館の神前で、駆けつけた人たちの神言が繰り返し聞こえる。それに耳を傾けていた父は、申し訳なきそうに言う。「すまないなあ、わしは心臓が強そうらしいので」なかなか息が止まらず、みなに迷惑をかけていないかとの父らしい気づかいであった。父の息づかいが静まった。妻に言う。「西へ向きを…手を胸に…:裾を直して」乱れた姿を見せたくなかったのだ。誰もが思わず顔を見合わせて泣き笑い。人々の奏上する祝詞の波に乗って、六日夕、いささかも苦悶の気配を見せず、父の魂は肉体の絆を解き放って去って行く。