開教前にも二四三五日の最初の型がてていた!
 平成十年十二月二十六日暁闇、私は『神の国』(愛善苑の機関紙)の執筆に追われていた。出口直は明治二十三年夏、三女福島久の発狂を金光教で治してもらって以来、金光教の信者になっていた。明治二十五年二月八日(旧正月十日)に激しい帰神になる。翌明治二十六年には発狂者にされて、四十日間座敷牢に入れられる。今まで大声で叫んでいた神の意思を筆先で伝えるようになると、次第に発動が静まる。そして直の不思議な病気治しの霊力と的確な予言によって、次第に直の周囲に信者らしい人たちができてきた。明治二十七年、金光教では直の霊力を利用し綾部で教勢を広げようともくろみ、布教師を派遣する。直は布教師と相談し、綾部に金光教の教会を聞き、金光大神と艮の金神を奉斎する。信者は直に病気を治してもらった人がほとんどであった。直は金光教に所属しながら、直に懸かる艮の金神を表に出そうと腐心するが、金光教では直を利用するだけで、艮の金神を認めようとしない。ついに直は綾部裏町の梅原伊助の倉を借り、単独で艮の金神を奉斎する。だが金光教会からは離れず、祭典には参拝していた。艮の金神は、自分の神格を審神してくれる人が東から現われると、かねてから予言していた。その待ち望んだ束からくる人、上田喜三郎(王仁三郎の本名)が初めて伊助の倉に直を訪ねたのが明治三十一年十月八日(旧八月二十三日)であった。 私は寝不足でもうろうとしながら、ワープロを打ち続ける。執筆のテーマは「神素盞嗚大神の神勅」であった。直が帰神の日から王仁三郎に初めて会うまで、ざっと六年余。いやまてよ、実際何日待ち続けたのだろう。ふとそんな疑問がわくと、締切の切迫にかかわらず、確かめたくて辛抱ができなくなった。万年暦、電子計算機を机上に置く。十一月二十六日未明、まだ人は寝静まっており、外は暗かった。直の帰神を前述したように、明治二十五年二月八日(旧正月十日)として計算にかかる。明治二十五年(二月八日から十二月三十一日まで)三百二十八日。明治二十六年、二十七年、二十八年、三十年は各三百六十五日。明治二十九年(閏年)三百六十六日。明治三十一年(一月一日より十月八日まで)二百八十一日。電子計算機の表示面に表れた数字が信じられず、目をこすりつつ何度か確かめる。間違いない。思わず子供のように奇声を発していた。そう、六年八カ月、二四三五日。ここまで読まれた読者なら、ピンとくるはず。王仁三郎の獄中日数、日本の被占領期間、いづとみづの会の発足から愛善苑再建までの大本教団に縛られていた期間、いずれも二四三五日である。直が金光教の傘下にありながら艮の金神を表に出そうともがいていた期間も二四三五日。型は三度と思っていたが、実は四度あった。とっくの昔、直と王仁三郎によって最初のひな型が出されていたのだ。このような偶然があるはずがない。まさに゛神の演出゛であったろう。夕刻になってワープロを打ち終ろうとしていた時、今日は旧暦の何回かと気になった。十一月二十六日は旧十月八日。そうか、王仁三郎と直の初会の日だ。最初の二四三五日のひな型が示された新暦のその日なんだ。そして私はもう一つ重大な忘れ物に気づいた。平成十年は高熊山入山百年の記念すべき年である。つまり今日は百年目の旧十月八日。百年目のこの日に至ってようやく初めてのひな型を悟ったというわけである。時の不思議に、私は呆然となるのだった。ある霊界物語の勉強会でたまたまこの話になった時、「二四三五の数字の神秘は分かったが、それの示す意味は何だろう」という疑問が出た。「後の三五が三大教、五大教を示したとしても、最初の二四には何の意味もなさそうだし•••」誰もが頭を抱えたが、参加者の一人が自信なさそうに言った。「二四三五を半分に分けて二四を足すと六、三五を足すと八になりますね。つまり六年八カ月のことじゃないかなあ」私には、その解釈でグンと納得がいった。あまりにできすぎにも思えるが、六年八ヵ月、二四三五日、神は念を入れて年月と日数で知らして下さったのだと。